父の話と精霊流し

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島原の父が他界して5年経ちました。2018年5月の事です。

少しの差で私を含め3人の子供達は誰も間に合いませんでした。3人とも大阪に住んでいるので島原まで行くのにどんなに急いでも半日仕事になります。

今日は父が亡くなった日の事を中心でお話します。

軽く父の経歴

島原を飛び出した父

軽く話せるほど父の生き様は軽くは無いのですが・・・

島原の農家で生まれ育った父は若い頃、家を飛び出し大阪に出て来ました。

父の話によると「芋が嫌いだったから農家はやりたくなかった」と言う事です。

学校も商業系の学校だったようです。

大阪の船場で丁稚として何年か働いた後、独立して紳士服の製造販売業を始めました。

母とは田舎にいる時に付き合っていたのかどうかその辺の話も聞いた事はありませんが、島原に住んでいる母を迎えに行って2人で大阪で住み始めたそうです。周囲の反対を押し切って半ば駆け落ち状態だったと言うのは聞いた事があります。

この辺りの話、もう少し詳しく聞いておけば良かったです。

ふたりで大阪の守口(もりぐち)と言う所に新居を構えました。父が25才、母が20才の事です。

私が産まれたのは母が21才の時です。

2階建ての家の1階を紳士服の製造の工場、2階は家族の住居にして住んでいました。

何人もの人が住み込みで働いていました。トイレが1階にしかなかったので夜トイレに行くときはお兄ちゃん達を踏まないようにそーっと布団の間を歩いていたのを覚えています。

商売大成功

それから商売は発展して家も庭付きの大きな家に引っ越しました。その頃は製造直売と言う事で自社工場で作った紳士服を自分のお店で販売していました。

何度もお店には遊びに行った事があります。父の車で一緒に店に出勤して後はお店の2階やとなりの喫茶店で時間をつぶして父の仕事が終わるのを待っていました。

考えたらひとりで喫茶店に居る子供って。。。

いつも食べていたのはミックスサンドとミックスジュース。これも覚えています。

どんどん店も増え、商売は上手く行っていたようです。

坂道を転がるように。。。

ここからの話は詳しい事は今回はやめておきます。父の会社が倒産したと言う事だけ書いておきます。

中学1年生の多感だった時期を父の仕事の都合であんな事やこんな事がありました。

夜逃げのような形で家を追われた後、まあ、色々凄かったですわよ。このお話はまた後日。

1度ならず2度目の倒産

普通はこんな事滅多にありませんよね。

これは私が結婚した後の事ですが父は会社を「また」倒産させました。この話もえげつないのでまた後日。

3度目の正直

ってホントにあるんですね。

3回目の起業で父は大成功。

私の弟に事業は譲って自分の田舎に帰りました。63才位だったのじゃ無いかと思います。

故郷島原で家を建て、母と住みはじめました。

現金一括払いだったようです。すご。

やっとゆっくり暮らすのかと思いきや、畑を借りて農家を始めたのです。あーびっくり。

地元のスーパーや道の駅に野菜を卸していたようです。

農家が嫌いで田舎を飛び出したのに、戻って来て始めたのは農家です。

『野菜の作り方』みたいな本を買って勉強したようです。

その頃、スーパーの産直コーナーで売っていた時、壁に貼られていた母の写真があります。

柚子事件

父の逸話は本当に山の様にありますがその中でひとつだけご紹介します。

【ゆず事件】と命名します。

我が家の庭には柚子の木が有って毎年たわわに実ります。

その中で大ぶりで見た目の良いものを夫と選んで箱に詰め、長崎の実家に送りました。

料理好きな母がきっと料理に使うだろう。柚子風呂もいいよね〜と思っていました。

ところが!

父は到着した柚子を見るやいなや、「こいつは売れる!」と思ったらしく、いつも野菜を卸している近所のスーパーで売っぱらったそうです。

「ええ値で売れたで」との事です(苦笑9

私たち夫婦の思いはあっという間に現金に化けました。

父は「もろたもんは、どうしようとオレの勝手や」と豪語していたそうです。

(😳)(😳)(😳)

まあ、いいんですけどね。父らしいな、と思った次第です。

※画像は父です。ウソです。
似たようなもんです。

 

父が亡くなった日のお話・最後の最後まで商売人だった

父が亡くなった日のお話に戻ります。

父が危篤との連絡を受けて駆け付けた大阪の3人の子供達のうち、弟が一番先に到着しました。

弟が病院に到着したのは、父が亡くなった直後だったそうです。ギリギリで間に合いませんでした。

でもひょっとしたらそれは父が望んだ事だったのではないかと思っています。

一番愛した母と最期の数時間を2人だけで過ごす事が出来たのですから。

本当に頭のいい人でした。数字にはめっぽう強く、商売人に成るべくしてなった人だと思います。

身体は衰えましたが、頭は最後の最後まで冴え渡っていたと思います。

最期は間に合いませんでしたが、先月から危ないと聞かされていましたので幾度となく帰省して父と話す事は出来ていました。

自分がいなくなった後のことを細部にわたって私達に指示をしていました。

1番は母の事。

納骨の場所の事。家の事などなど。

うるさい位に繰り返し繰り返し、聞かされました。

そして直前まで続けていた商売の事。

入院してほとんど意識がない状態でも毎日入ってくる売上報告メールの受信音。父らしいです。きっとちゃんと聞こえていたと思います。

ギリギリまで働きたいと言っていた思い通りになったのではないでしょうか。

天国に行っても神様相手にまた新たなビジネスを始めているような気がします。

父に怒られるので(笑)母の事は私達子供3人でサポートして行くつもりです。

父と母から受けた恩に比べればどんなに気を配っても全然足りませんが沢山、母の笑顔を見れるように出来るといいなと思っています。

精霊流し

島原では初盆を迎えた家が「 切子きりこ 灯籠」と言うものを出します。

これは精霊流しの前、実家に置いてあった切子灯篭です。

これを精霊船に積んで町を『ナマイドー、ナマイドー』と言う掛け声と共に練り歩きます。

故人を島原ではとても賑やかに送ります。

昔は100を超える精霊船が出ていたそうです。2018年は7艘のみでした。

それでも各船が激しいパフォーマンスを競っていました。

最後は船ごと海に入ります。

最後は海に流すのです。海に浮かぶ精霊船はなんとも幻想的でお祭り騒ぎの中にも儚さのようなものを感じます。

こうやって父の初盆は終わりました。