旅のプロ

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出会いは37年前

夫と出会ったのは37年前。

友達の結婚式でした。

私は結婚式の受付をしていました。

そこに現れたのが彼。

受付を済ませた後の一言が「今日の結婚式の司会、浜村淳らしいですよ」

当時、浜村淳さんと言えば関西では超有名な司会者でした。

凄いな~と思って披露宴会場に入りましたが待てど暮らせど浜村淳は出てこない。

からかわれただけか。と気づいた頃、新郎の友人の出し物が始まりました。

高砂の席の真正面がステージになっていて、そこに現れたのが私をからかった彼でした。

何と出し物は「安来節」

いわゆるドジョウすくいです。

こんな格好で登場。

嬉しそうに踊る姿と浜村淳発言により、私の頭に強烈な印象を残しました。

後日、聞くと旅行会社に勤めているとの事。

カナダやアラスカのスキーツアーを中心に手掛けている旅行会社でした。

あんな事やこんな事があり、付き合い始めた私達。3年付き合った後に結婚しました。

結婚後独立

夫は結婚後しばらくは旅行会社に勤務していましたが37才になった頃に独立して自分の会社を作りました。

海外旅行専門の旅行社です。

オーダーメイドの旅を謳ってここまで来ました。

机上で作るツアーでは無く夫は必ず自分で下見に出かけて本当に良いと思う所だけをお客様に紹介してお連れしています。

夫が作る旅行のお客様は海外に行き慣れた方がほとんどです。

旅慣れた方に満足頂ける他の旅行会社では作り得ない特別な旅を作っています。

心に残る専門店の旅を提供し続けて20年以上、夫の事を本当の旅のプロだと思っています。

日本に居る時は仮の姿

と夫は言います。

海外に居る時が本物らしいです。

私はいつも仮の姿の彼と居る、と言う事になりますね。

・・・ま、いいか(笑)

とても怖かったネパール雪崩事故

第1報

まだ夫が独立する前の話です。

ヒマラヤトレッキングツアーの添乗員として夫は出張していました。

その頃、私のお腹の中には長男が居ました。1996年の事です。

夜、何気無くテレビを見ていた時、ニュース速報が入りました。

ヒマラヤのトレッキングルートで雪崩が発生し、日本人13名が亡くなったと言うニュースでした。
休んでいた山小屋を雪崩が襲ったと記憶しています。

忘れもしません。ブロードキャスターと言う番組で司会の福留さんと言うアナウンサーの方が伝えました。

主催している旅行会社名も発表になりました。夫の勤めている会社でした。

事故に遭ったのは夫が添乗員として参加しているツアーである事が分かりました。

夫の会社にも中継が入っていてどなたかがインタビューに応じていました。

完全に終わったとその時思いました。

あとから知った事ですがシェルパも12人犠牲になったそうです。このシェルパの人達にも家族がいたはずです。

亡くなった方がシェルパをして家族の生活を支えていたのでは無いでしょうか。

当時ネパールに生命保険は有ったと思いにくいですし、まずそのようなものも政府の保障も無かったでしょう。

日本ではこの事は全く報道されなかったと思います。

母からの電話

母もニュースを見ていたのだと思います。妊娠中の私を心配して電話を掛けて来ました。

何と言われたのか何と答えたのか何を話したのか全く覚えていません。

電話がかかって来た事だけは、はっきり覚えています。

以外とその時の私はとても冷静でした。

心の遠いどこかでこれからどうやって生きて行こうか考えていたような気もします。

遠い昔の話のような、つい最近だったような。。。

翌朝

次の日も朝からテレビはこのニュースばかりでした。

朝8時頃だったかと思います。

夫の会社から電話が掛かって来ました。女性の方でした。

「ご主人は無事です。」

待ち望んだ一言でした。

この時は用件のみで電話は切れました。

力が抜けました。

これも後から知った事ですが、このヒマラヤトレッキングツアーは当時人気だったのか参加者が多かったため、1日違いの出発日で同じ内容のツアーが存在していたようです。

先発隊は夫の同僚の方が添乗員として、夫は後発隊の添乗員でした。

雪崩が襲ったのは先発隊が休んでいた山小屋だったようです。夫のグループは翌日、その山小屋に入る予定だったようです。

夫が命拾いした、と言う風には今も思えません。12人のお客様と夫の同僚の方が亡くなったのですから。

とても悲しい事です。

夫からの電話

会社から電話が有ったその日なのか翌日なのか、夫から電話が入りました。

紛れも無い夫の声でした。夫は生きていました。

生きていると言う事を夫の声を聞いて初めて実感しました。

自分は大丈夫、心配するなと言う事。しばらく事故の後処理のために帰る事ができない。

用件はこのふたつでした。

遺族の方達に遺品を渡す係をしたそうです。

どのご遺族の方も「好きな山で死んだのだから本望でしょう。」と言う事をおっしゃったと言う事を後から聞きました。

同僚の添乗員の方のご家族はどうだったのでしょうか。

遠い海外で、仕事で、と言うのはまた違った心情だったのでは無いでしょうか。

夫からその話をする事はありませんし、聞く事もありませんでした。

あの事故があってから

あの事故があってからも夫は変わらず、添乗員として何十回も何百回もツアーに出かけて行きました。

コロナの間のみ日本にいましたが、今年も何度か出発してそして帰って来ました。

でもあの事故以来、夫が出て行く際、覚悟のようなものを毎回している自分がいます。

人生、1秒先も分かりません。

今に感謝して今を大切に生きて生きたいですね。